いわゆる「人間」としての人生を歩めたのは、彼に出会うまでの二十六年の月日だけだったのだろうと考える。いや、正確にいうならば、もっと前だ。私が家族三人を殺してちょうど二十歳になったその歳に、私は「人間」からはもう脱線してしまったのだと思う。
それでも彼に会えたことで、警察から逃れ続けた私の六年間は、確かに「人間」めいた生き物になれていたんじゃないだろうか。もう彼と会ったときには本名なんて捨て去って、違う「人間」として生きていたのに、もう一度、やり直したいなんて願ってしまった。家族という何よりも大切なはずのものを、何の感慨もなく殺した私自身を、彼にさらけ出してしまいたかった。
私が出会ったその男は、同じ年でありながら、まるで立派な大人、とでもいうかのように穏やかで安定した心根を抱いているひとだった。寡黙で余計なことは口に出さず、思いがけず大胆な仕草で私を惹きつけた。常こそ寡黙な唇であったが、重ねられたそれは雄弁に想いを告げていて、そしていつも静かに、ときとして冷たく見える瞳は、もどかしいほどの焦燥を映して私を見ていた。まるで老人のように老け込んだ柔らかなアッシュグレイの髪に指を通せば、彼は安堵したように私を抱きしめた。ただ触れ合っていれば幸せで、でもそれ以上に、私にも彼にも、同じような恐怖が迫っていることを知っていた。
私たちはいつも何かに追われていた。胸の内から湧き上がる衝動を堪えることで精いっぱいで、互いの目を見つめていながらも、そこに映し出される影におびえていた。お互いが持つ憎悪に似たなにがしかの感情に、囚われることにおびえていた。
そのときの感情は、憎悪だったのだろうか。それはもう二年も過ぎ去ってしまって、彼もいなくなったというのに、いまだまったくわからなかった。ただ私の頭の片隅で、一枚だけ巻きついた赤いハンカチがはたはたと時折揺らめくかのように、ふと夢想しているときに思い出すのだ。
男はよく深い赤のセーターを身に着けていた。私が彼を思い出すときに毎回浮かび上がるのはその色だ。深く暗く沈み込んだ赤。血液とは違う、もっと優しくて包み込むような赤。その赤いセーターで抱きしめられるのが好きだった。
幸せだったのだ、と何度も何度も反芻する。しあわせ、その単語がふさわしいのは、当時の私たち以外きっと世の中にはいなかったのだろうと思う。そしてそれ以上に不幸だったのも。もちろんそれが過大評価でしかなく、自分たちの恋愛を至上のものとする幼稚な考えにすぎないのはわかっているが、それでも私は思い返すたびにそう考えてしまう。
ろくに喧嘩をしたこともなかった。ただ触れ合っていれば幸せだったから、不用意に言葉を使うことを避けていた。そしてそれは今思えば、お互いの欲を制止させるためだったのだろうと思う。
先に、口を滑らせたのは、おしゃべりな私ではなくて、驚くべきことに彼だった。
二人で暮らすちっぽけな部屋の中、ソファにゆっくりと身を任せ、自堕落に本をめくっていた私に視線をやってから、彼はふと唇の端を吊り上げて、笑った。
『人間の眼球って移植すると、よく過去の持ち主の見たものを映し出すことがあるっていうよな』
彼が突発的にそんな話題を出すのは稀だった。医学系の勉強をしていて異能を持たないながらもこつこつと真面目に取り組んでいた男がいうには、少し馬鹿げた話に聞こえた。けれどもそういう事例があるのは事実だし、当時きちんと外国の医療雑誌を翻訳する作業をしていた私からすれば、彼がいうことを笑うことができないのも事実だった。
だから本から視線をそらし、少しずり落ちていた眼鏡を押し上げながら彼を見て、緩やかにほほ笑んだ。そのときの男の目を、確かに私は見ていたはずなのに、覚えているのはぱたんと閉じられた彼の本だけだった。
『そうね。君がそんなことをいうなんて珍しい』
『そうかな。でもさ、それ眼球だけじゃないんだってさ』
『君の専門は眼球じゃないものね』
『茶化すなよ』
『ごめんなさい』
くすくすと笑い声をあげて彼が立ち上がってこっちにやってくることに気づき、私もまた本を閉じる。曲も流さずにただふたりぽっちでいる空間が、この上なく好きだった。彼の好む遠い異国の国の刀や、飾られた衣がふわりと翻る部屋が、大好きだった。今はもうその小さなアパートの一室は、壊されてしまったというのだけれど。
『骨も、そうなんだって。移植するんじゃなくて、しゃぶることで、相手の記憶を感情を知ることができるんだってさ』
そうなの、と囁きながら、そのときになって私はようやく彼がついに追いつかれてしまったことに気が付いた。伸びてくる骨ばった白い指を拒むこともできずに、かしゃんと響く落とされた眼鏡の存在を知る。異能を使ったときだけ黄金色に光る私の眼球は、そのとき確かに彼の表情を見ていたのだろうか。なら、今きっと研究室の冷たいところで、ホルマリン漬けにされたそれを飲み込んでしまっても構わない。
あのひとの、一番大切なはずの表情を、思い出したかった。
『 』
俺を、そう囁いた唇を乱暴に奪いながら、けれど湧き上がる幸せに私は興奮した。今まで抑えていたすべてが爆発したかのように、熱すぎて痛い衝撃が私の血管という血管を巡って、指先を焦がした。彼の手が触れている首すらも発熱して、離れなくなってしまえばいいのにと思った。彼の髪を引き寄せる指から発火して、彼の頭も体も皮膚という皮膚すべて、燃やし尽くしてしまえるような気がしたのだ。
『愛しているわ』
ありがとう、君を壊すことを許してくれて。
異能が彼の眼球を捕えた。ゆっくりと硬直していく身体をソファの上に横たえらせて、私はそこから身を引く。完全に石化させてしまってはいけない、身体が硬ければ硬いほど刃物は通らないから。生きている鼓動音に耳を傾けて、幸せのあまり私は泣いた。大好きな彼の大好きな赤いセーターを引き裂きながら、私は泣いた。思いがけず頑健な身体を、幾度も重ねた彼の身体をそっと愛撫しながら、唇を這わせながら泣いた。時折唇を混じらわせながら、幸せに身を浸して泣いていた。
彼を押しつぶした焦燥は、結果として私をも飲み込んだのだった。
湧き上がる感情に堪えきれずに男は私に告げてしまった。飲み込まれてしまったことを教えてしまった。
だから私は男を裂いた。
溢れ出る赤い血潮を飲み込んで、ずり落ちてきた臓物に口づけをする。一本一本指を食んでゆっくりと姿を見せた骨をしゃぶった。服が汚れることも床が汚れることにも気づかずに、私はただ彼の肉体だけを見ていた。すべてを壊しつくされることを望んでしまった男の身体だけを、見ていた。
欲しかったのだ、結局は。
カニバリズムとか、人食とかいうのだろうけれど私はそれじゃない。ただあの男だけが欲しかった。実際あとにも先にもひとを食べたのは彼だけだし、食べたいと思ったことなんて一度もない。私が彼を一生懸命にむさぼりながら考えていたことは、渇望が満たされたことに付随する喜びだけだった。欲しかったものが手に入った喜びだけが、胸の中を満たしていた。
きっと彼は食べられながら考えただろう、愉悦と恐怖の入り混じった瞳を私に向けながら、この女の狂気に触れたことの後悔を。狂っていないとはいえないけれど、それでも私は男の瞳からあふれる涙も、向けてくる恐怖に似た侮蔑も、そしてそれ以上にわき起こっている歓喜すらも、愛しかったのだ。欲しかった、欲しかった。男のすべてが欲しかった。
だから、泣いた。
幸せと、もうこんな男と出会えないことを知って、泣いていた。互いの欲を、こんなにも満たせる相手の不在を気づいていながらも、私は止められなかった。幾度も重ねた唇から彼の息のすべてが抜け落ちたとき、残していた彼の頭蓋にキスをした。幸せが脳髄までもしびれさせて、私はもう、何も考えられなかった。ただ部屋の中においてある彼の家の衣を身にまとって、掲げられた刀を抱いて、私はその部屋から飛び出した。大声を上げて泣き出しそうになるのをこらえながら、その小さな幸せの部屋から、逃げ出した。
愛した男が朽ちるさまを、見たくなかったのだ。
それから後のことは正直にいうと、記憶がとても薄い。あの男の匂いがする衣服に身を包んで、ぼんやりとこれから先のことを考えていた。そのときあまりにも凄惨な姿に、ぞっとしたとでもいわんばかりの表情を隠さないまま話しかけてきた浮浪者の男に救われて、しばらく彼らとともに過ごした。スリや空き巣や強盗の仕方なんかを教わって、今思えばあきれてしまうくらいまともではない人間たちと楽しくやっていたのだろう。
けれど私はまた男を殺した。私を救ってくれた男を殺して、彼に教わった手段で他人の部屋からものを失敬した。そして奪ったもので生きた。他人の名義で他人に成りすまして、昔の名前さえも捨て去った。あるときはリュエナ・バーヴォワールという会社員で、またあるときはエレソナ・ディダーロという貴族かぶれで、またあるときは相田真白という少女だった。彼女たちのなかで、殺した者はひとりもいなかった。名前に加えて、命まで借りてしまうには、あまりにも礼儀がないと思った。
そのとき私は二十二になったばかりで、三ヶ月もしないうちに二人の男を殺していた。それからは、ただ彼の刀を振るうだけの、凡人になった。最初に愛した男を殺してから、私の中には何もなかった。ただ刀を握ったときだけ、彼の匂いが未だ残る黒い着物を身にまとったそのときだけ、私は彼に教えた本当の自分に帰ってこれた。あの男の腹を引き裂いて、身体という身体に口付けた自分自身に帰ってこれたのだ。
二十歳のときに三人、二十二のときに二人。
クロエ=バルニエという猟奇的連続殺人犯が関わる事件は、けれどまだ終わってはいない。私は二十六になるまで、あと四人殺した。もう記憶さえも薄れてしまってはいるけれど、つまり私にとってその四人は行きずりの相手だった。感情を抱くまでもない、ただの被害者だ。
そして四人を殺してから、ふとあることに気がついた。死んだ肉片を転がして、近くで立ち尽くす彼や彼女の親族や、親しい他人を見て、気がついた。私の異能で動けなくなってしまった彼らの表情を見て、気がついたのだ。
『……憎んで、いるの?』
恐怖と、憎悪が、入り乱れた醜悪な感情が私の目を焼いた。黄金色に輝いていただろう私の目を見返す彼らの目は、あのときの彼の眼差しだったんだ、そう天啓のように悟った。そして気がついた瞬間、私の胸の奥でひっそりと息すらもしていなかったあの焦燥が、どくりと震えた。まるで目が覚めた、とでもいうかのように、鼓動音が耳の中で木霊する。
もう一度、彼と出会える。
もう一度あのときの幸せを、私は得られるのかもしれない。
どくりどくりと細い血管の中を血液が痺れるように駆け巡る。その陶酔感に酔いしれながら、私はゆらりと微笑んだ。
『憎しみで、殺して』
愛なんて優しさはいらない。愛よりもそれを裏返した憎悪が欲しい。
あの眼差しを、今度こそ、私だけのものに。
「俺にその話して、クロエは何がしたかったわけ? 嫉妬しないとでも思った?」
「思うわ。君は私が誰と付き合ったっていう類の過去があったとしても、気にも留めない。違う?」
「……ひっでー、俺だってあんたへの独占欲あるんだよ? 矮小な男のさ」
「一般的なそれより薄い、って言葉が抜けてると思うんだけど、ノエル」
仕事を終えて二人、私の使っている古びたアパートのソファの上で、寄り添って座りながら、懐かしい話をしていた。本名のことはもう忘れてしまったと嘯く私を、小突くノエルの手は暖かい。見えない世界の中で、あるはずのない視界に浮かび上がるのは、あのときの彼の指だった。ノエルのそれよりも、よっぽど無骨ででも骨ばった指。私が食んでしまったそれ。
だからいつかのようにノエルの指を持ち上げて、口付けるように爪先を舐める。ぴくりと彼の身体が震えたのを知りながら、私はかすかに微笑んだ。
「君は、食べない。君には、私を殺して欲しいの。
好きよ、ノエル」
君の目は、今、あのときの彼と、同じ色を映しているのだろうか。