乾いた世界の隅っこで

 生きながら死ぬってこんな事かなと思った。
「妹が死んだというのに。涙ぐらい流したらどうだ!」
 俺の胸倉を掴むアリアの瞳は色彩を失っていた。青いはずの瞳が涙に濡れて、揺れていた。
 喪服の黒さえ褪せて見えていたのを覚えている。何を食べたのか、どう眠ったのか、覚えていない。
 疲れたら立ち止まって空を見上げるといいと誰かが言った。そうじゃなくて、歩き方を教えてほしかった。葬式の準備は両親がやってしまって、俺は立ちつくして褪せた黒を眺めるしかできなかったから。
 どうにか倒れなかったことだけは覚えている。トイレでカップラーメンを吐いた時に、俺はまだまだやっていけると自分に言い聞かせた。初めて涙が出た。
 お前は自分のことでしか泣けないんだなって、アリアの言葉が蘇った。

 何かが壊れる音は聴き逃したみたいだ。

「オーリック、レポートが出ていないぞ」
 教授の怒声が上滑った。答えるべき言葉なんか持ち合わせていなかった。
 今まで通りに努力すればできる事ができなくなっていた。レポートでも勉強でも、少し行き詰るとヒステリックに叫び声を上げた。
「ユリアはいい子だったのにお前ときたら」
 大学を辞めると言うと、両親はそう言った。死者と比べるのは卑怯だろと反論すると、殴られた。
「だんまりで許されるのはガキのうちだけだと分かってるだろう」
 そう言ったバイト先の先輩に、それならと口答えすると怒鳴られた。
「ノエルならできるよ。大丈夫」
 定職もない。気力もない。こんな俺の何が大丈夫なのか教えてほしい。
「どんなに辛くても、明けない夜はないからね」
 あんたらは応援だけでいいから楽だよなと言えば何か変わったんだろうか。
「サイテーね、あんた」
 二股かけたことがバレて殴られた。俺が最低なのは知ってるし、罵られた方が安心した。
「お前が苦しいとしたら、お前がそんな風に無気力で怠惰な人間だからだ」
 何を今更とせせら笑った。そんなことはないと言えたらよかった。
「天国のユリアちゃんも悲しむわ」
 死者のために生きるなんてまっぴらごめんだねと笑った。憐れむ目が一変して、罵られた。
「ノエル君も疲れてるんだよ。そっとしてあげなきゃ」
 こいつら本当に分かってねえんだなと思うといっそ笑えた。
 笑えたけれど、別の感情がじりじりとせり上がってきた。俺は息を吸って、叫んだ。
「あぁそうだよ、お前等がいるから疲れるんだ! お前等全員消えてしまえ!!」
 俺を憐れんだり見下したり裁いている目が、一様に驚きの色に染まった。少し面白い。
 その目が、今度は怨嗟の色に染まる。ぎょろりと俺を睨みつける。化物みたいだと思った。親愛なる連続殺人犯の誰かさんより、よっぽど。
 その目と目があった瞬間、目が覚めた。

「……っ」
 反射的に身体を起こした。それが何に対する反射か考える余裕もなく、辺りを見回す。古びた狭いアパートの、見慣れたインテリア。自宅ではない。
 嫌な夢を見たんだろう。夢の感覚も記憶もだいぶ意識から遠のいてるけど、寝汗の気持ち悪さが纏わりついている。
 ゆっくりと立ち上がると、足がもつれて布団の上に尻餅をついた。
「アルコール、弱いなら控えたら?」
 音に気付いた恋人の声。正直、こんな情けない格好で彼女との一日を始めたくはない。
 声のした方を見ると、やっぱり狭いダイニングでクロエが朝食を取っていた。寝ぼけた俺がその言葉の意味を理解できずにいると、
「おはよう」
 興味を失くしたという意思表示のような挨拶が降ってきた。
 おはようと気の抜けた挨拶を返して、状況を整理する。
 頭の重さとクロエの言葉が結びつく。そういえば、昨日クロエの部屋に行って、貰いもののワインを飲んだ。そして、俺が酔い潰れた。辻褄が合う。
 納得がいったところで、壁の時計に目をやる。時刻は十時過ぎ。本屋のバイトが始まる時間が十時。完全に遅刻だ。
「あー……。仕事、電話しねーと……だりぃ」
「またクビになるよ?」
 クロエの声は呆れていた。呆れられるのに慣れ切った俺は苦笑すらせずに、布団の脇に適当に脱ぎ捨てたコートのポケットから携帯電話を取り出す。
「わり、かけるわ」
 簡単に断って、殺風景なベランダに出る。冬の冷たい空気に肌が刺されて身が竦む。発信履歴から本屋の番号を探して、ボタンを押す。
 短い通話を追えて部屋に戻る。耳障りな窓の音を聴いて、クロエがこっちに歩み寄った。
「クロエ」
「どうしたの?」
「俺、疲れてんのかも」
「そう」
「仕事、体調不良ってことにしたから」
「そう……きゃっ!」
 クロエの悲鳴が耳に心地いい。俺がさっきまで寝ていた布団に引き倒して、乱れた髪を指ですいた。
「クロエ、俺さぁ」
「何?」
 強気な反応が可愛くて頬を撫でる。
「この世界に俺とクロエだけならいいのにとか思った」
 零れた言葉は、今日天気いいねぐらいの軽さだった。本当に何の気なしに口をついて出た言葉だった。
 クロエは少し黙った。今度はいつものように笑い飛ばさなかった。そんな特別なつもりで言った訳じゃないし、だんだん気恥ずかしさが上ってくるから何か言ってほしい。
「なんでだろ。流石に俺でも恥ずかしいわこれは」
 沈黙に耐えかねて言葉を重ねる。「君が恥ずかしいのはいつものことだけど」と言われて、やっと安心した。
 力なく笑って、抱きしめた。クロエも諦めたように俺の方に身体を寄せる。
 世界を二人占めなんか出来やしない。安いアパートの隅っこで、俺を壊した女の体温に縋って眠る。滑稽で構わない。こうしないと、俺が駄目になるような気がしたから。
 たまにはこんな日があってもいいだろ。たまには、休んでもいいだろ。